風の行方とハードボイルドワンダーランド

再雇用の機会を捨て自由な時と空間を・・・ 人は何のために生まれてきたのだろうか? これから本当の旅がはじまる・・・

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早稲田の田んぼ

「真田丸」が終わった。久しぶりに最後まで観た大河ドラマだったが、平均視聴率は16.6%だったとか。6台に1台しかチャンネルを合わせていなかったわけで、面白かっただけにちょっと意外な気がした。もっとも30%というと高視聴率だが三人に一人しか観ていないし、48%でも過半数は無視しているわけで、世の中そんなものかもしれない。

土曜日の「ブラタモリ」では目黒を取り上げていた。雅叙園が紹介されるのを見て、「そういえば椿山荘って誰の大名屋敷?」となって古地図を取り出して眺めた。すると早稲田大学のあたりが田んぼになっている。地図は安政六年(1859年)謹製、明治維新のちょっと前だ。東京の大きな庭園や土地の多くは大名屋敷跡であることが多いが、早稲田大学は田んぼだったらしい。神田川の北側の関口台地側は護国寺にかけて家屋が並び、南側も甲州街道にかけて町が開発されているが、このあたりは町に囲まれた田んぼ。都市部の田だけに、早稲を植えて付加価値を付けた可能性は高い。だから早稲田。

大隈重信が早稲田大学の前身の東京専門学校を開校下のが1882年(明治15年)。 どうも早稲田大学は田んぼの中で生まれたようだ。
江戸古地図4
この古地図エリアの概略の位置はこんな感じ。江戸時代からの道が今も使われていることがよくわかる。
早稲田

少々調べていたらこんなページがあったのでコピペ。歴史小説作家の菊池道人氏の1ページだけの「裸の早稲田」という記事。あまりに想定通りの記載。

江戸時代末期の文化七年から執筆された「新編武蔵風土記稿」にはかなり詳細にこの地のことが記されている。 「豊島郡之四」に「早稲田村」の項目がある。それを引用すると、

「早稲田村は元牛込村の地にて、小名早稲田と唱へしを何の頃よりか別村となれり。正保元禄の改にも載せず、村内の地次第に町並となりし一町五段二畝十九歩の所は、早稲田町と唱へ延享二年町方の支配となる。日本橋より行程一里十町、東は中里村西は下戸塚牛込の二村、南は早稲田町同榎町北は関口村なり、東西三町南北五町、民家二十軒」 早稲を育てる田んぼがあったからいつからかそう呼ばれていたことであろう。

 注目すべきは延享年間(1744~48)から町方の支配を受けるようになったすなわち村から町になったことであろう。それだけ江戸の人口も増えたからであろう。 すでに堀部安兵衛の助太刀でも知られる高田馬場が江戸初期から設けられ、大名家の下屋敷も建てられるなど、江戸の町の発展に従い、徐々に早稲田の地も開発されていった。大隈重信の別邸も松平讃岐守所有のものであった。

 が、その一方で、現在、大学がある場所は関口に庵を結んでいた松尾芭蕉が琵琶湖になぞらえるくらいに田んぼも広がり、また前掲の「新編武蔵風土記稿」には、茗荷がこの地の名産であったことも記されている。現在は大学の中央図書館もこの地に安部球場が造られる前は茗荷畑であった。

 そしてこの地に大隈重信が東京専門学校を開いた当初、校舎の周囲は田んぼであった。それだけに校風にも質朴な香が漂っていたことであろう。


確かに、芭蕉庵があったことを思いだした。
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