風の行方とハードボイルドワンダーランド

再雇用の機会を捨て自由な時と空間を・・・ 人は何のために生まれてきたのだろうか? これから本当の旅がはじまる・・・

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捨てて拾われ青い山(10)

訳あって来週福岡に二泊三日で行くことになった。訳あって行くにもかかわらず、どこに行ったらいいのかあてがなかった。そこで頭に浮かんだのが呼子、博多から直線距離で50㎞ほどの港町だ。

数年前から、「季」誌に「捨てて拾われ青い山」という連載記事を書いている。山頭火の日記をネタににして綴っているので、日記の精読を強いられる。合わせて地図上で泊まった土地と足跡も追う。だから彼がいつどこへ行って何を食べて何を思っていたか、我がことのように親しい。昨年の7月号に掲載された10回目の記事が博多から呼子にいたる旅程の日記だった。おかげで呼子が日本三大朝市の一つだとか名護屋城趾があるとかイカが旨いらしいとかを知るところとなった。ということで行先は呼子に決定。
201701福岡

足を調べてみるとどうも電車とバスで十分そう。電車を調べてびっくり。唐津に行くには唐津線とかいうJRの列車に乗ればいいと思っていたが、地図でみると博多から唐津につながるJRの路線はない。姪ノ浜という、博多が新宿だとすると吉祥寺付近に相当する駅から肥前線が唐津に延びている。要するに新宿―吉祥寺間には線路が存在しない。さすがにそれはひどいので今は市営地下鉄の空港線が延び、かつ肥前線に乗り入れている。
201701姪浜

「姪ノ浜」に反応したのも、山頭火の日記において意味ありげだったから。この機に「捨てて拾われ青い山(10)」を丸ごと下記に転載。
 
捨てて拾われ青い山(10)」 XXXX
             
 昭和七年一月、山頭火は響灘から玄海灘へ海沿いの町での行乞の旅を続けた。日記を付けることも人生の一つの目的であるかのように、山頭火は毎日必ず記している。ところが福岡市の北に位置する神湊から福岡市内の姪ノ浜までの三日間、日程と宿を記すだけで日記らしいことを書き綴っていない。三日目の姪ノ浜の日記に「此三日間の記事は別に書く」と記すのみである。実は四日前にも神湊に泊まっている。この間に何かあったのか、日記と言えども人様に見られることを意識していたのかもしれない。その姪ノ浜の日記には三句が合わせて記載されている。
    朝から泣く児に霰がふつてきた
    寒い空のボタ山よさようなら
    福寿草を陽にあてて縫うてゐられた

 その後、日記は饒舌になる。そのせいか「自画像」に採録された句は少なくかつ紹介したい句もない。
 一月下旬に唐津に入り、二十四日に呼子の名護屋城趾を訪れた。名護屋城は豊臣秀吉が五十四歳の千五百九十一年に朝鮮出兵の拠点として築かれせた城である。当時としては大坂城に次ぐ規模だった。周囲には百三十以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から二十万人を超える人々が集ったという。先日、「真田丸」で紹介されたのでご存知の方も多いだろう。
この日、山頭火は呼子から発動汽船で名護屋側へ渡っている。渡銭十銭。お酒一杯と同じ。なお、呼子では今も朝市が開かれ、 日本三大朝市の一つらしい。
 名護屋城趾についてこう記している「石垣ばかり枯草ばかり松ばかり、外に何も残つてゐないのがよい、ただ見る丘陵の起伏だ、そして一石一瓦ことごとく太閤秀吉を思はせる、さすが規模は太閤らしい・・・」。なるほど国営放送で放映されたとおりだ。この後、日記に二句記されている。ただしどちらも「草木搭」にも「自画像」にも収録されていない。
    城あと、茨の実が赤い
    ゆつくり尿して城あと枯草

 名護屋城趾吟行の後、二時間ほど漁村行乞、更に呼子の沖五百mにある加部島に渡った。周囲八キロというから大きな島だ。この島には集落が二つありそれぞれ遊女屋が十余軒と四五軒あったと記している。山頭火曰く「しかし佐用姫の情熱を持つたような彼女は見当たらなかった!」そうだ。ここでも行乞しているのでこんな感想になったのだろう。この日は更に三句を記している。
    朝凪の島を二つ置く(呼子港)
 この句は気にいっていたらしく「草木搭」に収録されている。「自画像」にはこちら。
    黒髪の長さを潮風にまかし

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