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風の行方とハードボイルドワンダーランド

再雇用の機会を捨て自由な時と空間を・・・ 人は何のために生まれてきたのだろうか? これから本当の旅がはじまる・・・

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馬鹿の四乗

1944年3月、日本軍はイギリスなど連合軍の拠点インド・インパールの攻略を決行した。第15軍の下記3個師団で計49600人、その他軍直轄部隊併せて約9万人の将兵が2000メートル級の山岳地帯を越え、インパールを目指した。しかし、誰一人たどり着けず、死者3万人、傷病者4万という大敗北を喫した。撤退路には倒れた兵士が重なり、その道は白骨街道と呼ばれた。

その時の陣容は下記の通り。
第15軍(林) - 司令官:牟田口廉也中将、参謀長:久野村桃代
第15師団(祭) - 師団長:山内正文中将 - 5月時点での兵力16000人
第31師団(烈) - 師団長:佐藤幸徳 中将- 5月時点での兵力16600人
第33師団(弓) - 師団長:柳田元三中将 - 5月時点での兵力17000人

インパール作戦は当初より第15軍司令部内部でも無謀さが指摘されており、第31師団長となる佐藤中将も作戦前から第15軍の会議にて補給の困難を主張していた。しかし作戦は決行され、佐藤の予期していた通り、第31師団の前線には十分な糧秣・弾薬が補給されなかった。部隊の自壊を危惧した佐藤は、「作戦継続困難」と判断して、度々撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。

佐藤は戦況を正確に認識し、命令を無視して部下に遅滞戦闘や撤退を命ずると共に、司令部に打電する。
「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」
「でたらめなる命令を与え、兵団がその実行を躊躇したりとて、軍規を楯にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず」
「作戦において、各上司の統帥が、あたかも鬼畜のごときものなりと思う……各上司の猛省を促さんとする決意なり」
「久野村参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり」

これは陸軍刑法第42条(抗命罪)に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が上官の命令に従わなかった日本陸軍初の抗命事件である。もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったという。しかしこの抗命撤退により多くの兵士たちの生命が救われることになった。

佐藤は、後に「大本営、総軍、方面軍、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招来したのである」という言葉を残した。

解任された佐藤は軍法会議で作戦失敗の非を訴えようとしたが、結局不起訴処分となった。起訴に代えて牟田口は佐藤の精神鑑定をビルマ方面軍司令官河辺正三中将に上申した。結果、「精神病(心身喪失)」扱いでジャワ島に送られたらしい。事実上の軟禁である。これは、すでに抗命罪による死刑を決意した佐藤により、撤退理由をはじめとするインパール作戦失敗の要因が明らかにされると共に、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避するためと推測されている。

1893年山形県生まれ1959年没享年65歳
佐藤幸徳 中将 佐藤中将

昨年の12月27日、BS1で特別番組「戦慄の記録 インパール 完全版」が放映された。その日は山荘に行く予定であったが、振り返れば今シーズン一番の大雪が予想されたので中止し、時間があったので偶々テレビで見たもの。

インパール作戦の概要や「馬鹿の四乗」という話は知っていたが、全体像をまとめて見るのは初めてだった。

こういう史実を知っていることもあって、現在の「忖度」がどうのこうのという報道を見ると生理的嫌悪感を禁じ得ない。佐藤中将が牟田口司令官の意向を忖度どころか命令に従うだけで、インパール玉砕の英雄として勲章をもらい戦後を悠々と暮らせたことだろう。言わずもがなだが、昨日のタイトルは今日の話が下敷き。
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