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風の行方とハードボイルドワンダーランド

再雇用の機会を捨て自由な時と空間を・・・ 人は何のために生まれてきたのだろうか? これから本当の旅がはじまる・・・

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琴棊書画

日経新聞朝刊に今「絵師が描いた囲碁将棋 十選」なる特集が文化面に連載されている。絵としてなかなか興味深いし、解説もおもしろい。文は大阪商業大学アミューズメント産業研究所主任研究員 古作登氏。

こちらは連載第3回の絵。三代歌川豊国(1786~1864年)の描いた「金烏玉兎倭入船」(部分) で、吉備真備(右)が唐の玄宗皇帝の配下で碁の名手・玄東と碁を打っている図だ。背後に遣唐使・阿倍仲麻呂が霊として登場し、真備を助けたとされる。

201909吉備真備

解説文にこうあった。
吉備真備(695~775年)は備中国出身の公卿。20代半ばのとき遣唐使として留学、18年にわたって儒学や兵学、天文学、音楽など多くを学び、日本に帰って書籍や宝器を朝廷に献上したとされる。天皇の信頼も厚く右大臣まで出世した。中国から持ち帰った知識のうち一つが囲碁だったいう言い伝えが「吉備大臣入唐絵巻」(ボストン美術館蔵)などに描かれている。これはフィクションで平安時代に大江匡房が残した説話集「江談抄」を基にしたもの。囲碁が奈良時代以前に日本に伝わっていたことは中国の正史「隋書倭(ずいしょわ)国伝(こくでん)」に記されている。

手許の日本史年表によると、吉備真備が阿倍仲麻呂らと唐へ留学の旅に発ったのは西暦717年、1300年程昔のこと。徳川家康や秀吉がー、という時代は400年前、その400年前が「いい国作ろう鎌倉幕府」、さらにその500年前の話だ。小野妹子が隋に派遣されたのが607年、帰国が608年なので多分そのころ碁が日本に伝えられたのだろう。

吉備真備が訪れた時代は唐の建国から100年ほど経っており、囲碁は急速に発展していた。宮中には棋待詔という職が設けられ、皇帝と囲碁をする棋士を専門に養成していたそうだ。王積薪は開元年間の名人であり、圍棋十訣をまとめた。「不得貪勝,入界宜緩,攻彼顧我,棄子争先,捨小就大,逢危須棄,慎勿軽速,動須相応,彼強自保,勢孤取和」というこの秘訣は囲碁の古典理論とされる。真備が実際に碁を打っていたことは想像に難くない。吉備真備の人生に関しては詳しい資料が残っているらしく波乱万丈、それも面白いがここでは略。

唐の時代、「琴棊書画」という言葉があった。「琴」は古琴(音楽)、「棊(き)」は囲碁、「書」は書道、「画」は絵画を意味し、古代から近世にかけ知識人のたしなむべき技芸として現在でも用いられている。仕事が出てこないのがミソ。アリとキリギリスのキリギリス。

第1回目の絵。
三代歌川豊国「琴棊書画」(部分) 201909碁
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