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風の行方とハードボイルドワンダーランド

再雇用の機会を捨て自由な時と空間を・・・ 人は何のために生まれてきたのだろうか? これから本当の旅がはじまる・・・

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浦上玉堂

今日の朝刊、見開き全頁で浦上玉堂が特集されていた。先週も同じく浦上玉堂が特集されていたので、ん?と思い、よく見るとタイトルに「江戸期の自由人 浦上玉堂(中)」とあった。先週は(上)で来週は(下)と続くのだろう。

(上)のページに五段抜きで掲載されていた作品が「凍雲篩雪図(とううんしせつず)」(下図の右ページ)。いやでも目に入る。
20200802浦上玉堂0

浦上玉堂を初めて知ったのは大学院生時代。当時小田急デパートにカルチャースクールのようなものがあり、水墨画の教室に入った。生徒はおばあさんばかりと思ったが、今思うと普通のおば様だったのだろう。経緯は忘れたが、その機に目にしたのが「凍雲篩雪図」。水墨画初心者ながら凄いと思い浦上玉堂の画集を購入した。今引っ張り出すと昭和49年5月第二刷とあるから45年ぐらい昔の話だ。

「凍雲篩雪図」、川端康成が戦後購入した。まだそれほど売れていなかった1950年、あまりに高価だったので大阪朝日新聞社から原稿料を前借して購入した話は結構有名。どこかで鎌倉の自宅での川端康成の写真を目にした時、背景の床の間に「凍雲篩雪図」が飾られていたのを見て、一人こっそりと感激したことを覚えている。今は個人の手を離れ国宝になっている。

今回の特集を読んで、浦上玉堂のことを知り、これまで以上に親しみを覚えた。37歳にして備中鴨方藩の大目付まで出世したそれなりの人物だったが、43歳で解任され50歳で脱藩、息子二人を連れ会津へ向かった。玉堂は芸術への関心が高く、士大夫のたしなみとされた「琴棋書画」のうち碁は打たなかったが、琴と書画には熱心に取り組み、特に七弦琴は優れていた。会津藩には雅楽再興のために招かれ、子供には春琴、秋琴と名前を付けているほど。解任は文藝に精進するためだったといわれている。

会津に移った後、玉堂は子供を置いて東北から九州まで各地を旅してまわる。まるで山頭火のようだが、身分も高かったので行乞ではないようだ。江戸期の自由人、そうだったんだと、とても納得。1820年没、享年76歳。

国宝「凍雲篩雪図」(133.5x56.2センチ)  20200802浦上玉堂1

「抱琴訪隠図」(112x62.8センチ)  20200802浦上玉堂2
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