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風の行方とハードボイルドワンダーランド

再雇用の機会を捨て自由な時と空間を・・・ 人は何のために生まれてきたのだろうか? これから本当の旅がはじまる・・・

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山頭火の句碑

「季」に連載中の山頭火の書き物「捨てて拾われ青い山」の七・八月号掲載分は、山頭火が鎌倉から東京を訪れた時の日記から書き下ろす予定である。いろいろと関連事項を調べていると、山頭火の句碑は全国に数多あるものの、東京に一つだけあると知った。山頭火は九州の出身で庵も山口県や愛媛県に編んだぐらいであるから、関東には少なくても驚くにはあたらない。

   ほつと月がある東京に来てゐる

この句、東京に来て詠まれたようだが、記されているのは鎌倉に来て二日目の昭和11年(1936年)4月4日の日記で、東京に行くのは翌日。山頭火にとっては鎌倉も東京のようなものであったろうが、何よりも「鎌倉に来てゐる」では句にならないように思える。俳句における虚の真実。山頭火においても必ずしも事実の写生ばかりではないことがわかる。

さてこの句の句碑、日暮里の本行寺にあるという。「本行寺」、当初は何の感慨もなくただの知らない寺であったが、そのうちどこかで見た寺の名前のように思えてきた。古い資料を探すと、2013年の一茶・山頭火俳句大会in松山での入賞と自費で松山に来てくださいという連絡はがきの事務局が「本行寺」であることを確認した。なんと8年前からの因縁だった。まるで横溝正史の世界。

この時の松山紀行は→こちら→こちら

20210515本行寺

本行寺はJR日暮里駅の西口を出て道路を渡り、左へ緩い坂を50メートルほど登ったところにある。「月見寺」の別名を持つとかでその名も門に掛かっていた。
20210515-1.jpg

山門をくぐり広くない境内を10メートルも進むと、まるで山頭火の位牌のような質素な句碑があった。
20210515-2.jpg

大会の事務局でもあり寺の住職でもある加茂行昭氏による山頭火の句碑の由来がウェブにある。

小林一茶と当時の本行寺の住職であった一瓢との交遊は有名だったそうだ。たぶん昭和初期だろうが一茶の句碑を建立する動きがあり、一茶研究で有名な荻原井泉水に揮毫を願ったのだが、体調でも悪かったのか実現せず、高弟の大山澄太氏が師に代って揮毫をしたそうだ。その折、大山氏は「一茶さんの隣りに山頭火の句碑を友人一同で建てたいので頼む」として建立されたのがこの句碑。よって文字は大山澄太氏のものである。句碑の裏に建立日と共に「友人一同」の文字が彫られている。

昭和61年11月13日建立 20210515-3.jpg

門の右手に立つ荒川区の文化財解説の立て札。
20210515-5.jpg

日暮里西口の陸橋から北方向。
20210515-4.jpg
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