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2021.07/26 [Mon]
草軽電気鉄道
季に連載中の「捨てて拾われ青い山」の原稿執筆のため、日曜日は山頭火の日記に目を通した。今回は第36回だからずいぶん長いこと連載を続けていることになる。今回の舞台は東京を出て甲府、小梅線経由で浅間山の南側の句友宅を訪ね草津までというルート。昭和11年〈1936年)の5月の話である。
この日は一日で句友宅から草津温泉に到達している。日記の記載を要約するとこうなる。御代田駅まで歩き、汽車で沓掛駅へ。そこからは歩いて峰の茶屋経由吾妻駅へ。草津までは電車、六時ごろ草津着。この記述を読んでも何のことかわからず草津までの足取りを想像できなかった。沓掛駅?吾妻駅?電車?
実は当時、草軽電気鉄道という全長55キロの路線が浅間山の東側の山麓を走り、軽井沢と草津温泉を結んでいた。沓掛駅というのは現在の中軽井沢駅。吾妻駅はそのほぼ中間点に位置する駅だった。草軽電気鉄道が廃線になったのは1962年というからそれほど昔の話でもない。
草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治終わりの頃になっても交通機関が未発達であった。そこでスイスの登山鉄道に着想を得て、軽井沢から草津や浅間山麓の高原地への輸送を目的に建設されたのが草軽電気鉄道。大正期の1914年に着工され、 1926年に全線が開通した。全線単線で路線距離(営業キロ)は新軽井沢 - 草津温泉間 の55.5km、駅数は21駅だった。片道2時間半から3時間かかったという。建設費用をできるだけ抑えようとしたため、急曲線やスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらず、トンネルは存在しなかった。

草軽電気鉄道の特徴は電気機関車。デキXX形 という1920年米国ジェフリー社製の電気機関車で、信越電力(のち東京電燈)が発電所建設工事用として使用したものを電化の際に譲り受けた。


始発駅と終点の駅。
新軽井沢駅
草津温泉駅
ようやく日記の謎が判明したついでに、現在の地形図に草軽電気鉄道の路線を描いてみた。なるほどあれば便利。ただ国鉄が渋川からバス輸送を開始し、さらに吾妻線を新設したこともあって乗客は減少、1962年に廃線となった。思えば少々昔、小学生の頃まで走っていたと知り、感慨深い。

この日は一日で句友宅から草津温泉に到達している。日記の記載を要約するとこうなる。御代田駅まで歩き、汽車で沓掛駅へ。そこからは歩いて峰の茶屋経由吾妻駅へ。草津までは電車、六時ごろ草津着。この記述を読んでも何のことかわからず草津までの足取りを想像できなかった。沓掛駅?吾妻駅?電車?
実は当時、草軽電気鉄道という全長55キロの路線が浅間山の東側の山麓を走り、軽井沢と草津温泉を結んでいた。沓掛駅というのは現在の中軽井沢駅。吾妻駅はそのほぼ中間点に位置する駅だった。草軽電気鉄道が廃線になったのは1962年というからそれほど昔の話でもない。
草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治終わりの頃になっても交通機関が未発達であった。そこでスイスの登山鉄道に着想を得て、軽井沢から草津や浅間山麓の高原地への輸送を目的に建設されたのが草軽電気鉄道。大正期の1914年に着工され、 1926年に全線が開通した。全線単線で路線距離(営業キロ)は新軽井沢 - 草津温泉間 の55.5km、駅数は21駅だった。片道2時間半から3時間かかったという。建設費用をできるだけ抑えようとしたため、急曲線やスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらず、トンネルは存在しなかった。

草軽電気鉄道の特徴は電気機関車。デキXX形 という1920年米国ジェフリー社製の電気機関車で、信越電力(のち東京電燈)が発電所建設工事用として使用したものを電化の際に譲り受けた。


始発駅と終点の駅。
新軽井沢駅

草津温泉駅

ようやく日記の謎が判明したついでに、現在の地形図に草軽電気鉄道の路線を描いてみた。なるほどあれば便利。ただ国鉄が渋川からバス輸送を開始し、さらに吾妻線を新設したこともあって乗客は減少、1962年に廃線となった。思えば少々昔、小学生の頃まで走っていたと知り、感慨深い。

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