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2022.03/11 [Fri]
欧州の「入試」の実態(書き忘れ分の追記あり)
昨日は東大の合格発表日だったそうだ。卒業生ではないのでどうでもいいことなのだが、常々日本の不幸の数多の要因の一つが大学の入試システムにあると思っていたので、この機に記しておく。
日本社会の特徴の一つが、出身大学によって多かれ少なかれ人生の色合いが決まってしまうこと。いわゆる「いい大学」に入れば、自ら希望さえすれば大企業を含め安定したいい会社に入社できるチャンスは格段に大きく、かつ入社してしまえば何もしなくても生涯安定した収入と社会的地位が保証される。多少その流れに最近は変化が見られるにしろ、大卒の9割以上はそんな流れの中にいるのが現実。
そんな現実に浸ってきた親も、それを横目で見てきた親も、特別な才能に恵まれた子を持つ親以外は、子供を「いい大学」に合格してもらいたいと思うだろう。その関門が大学入試。
この大学入試、当日の試験一発で実質の人生が決まってしまう不幸を避けるため、多少の改革はなされていて、現在は国公立大学の場合、共通テストと個別学力検査(いわゆる入試)の併用、一般選別というらしい、が全体の8割ほどである。学校推薦型や総合型と呼ばれる入学者が2割ほどいるのが目新しい。
Benesse HPより
さて共通テストと個別学力検査の併用といっても学校によって比率の差がある。東大のように入試に8割の重みがある大学や、入試の重みが4割までの大学があるようだ。ただ、共通テストも高校三年生という人生の数日間のテストの結果であるから、本質的な改善はなされていないといって良い。

言い換えれば、テスト日の体調やテスト問題との相性という一瞬によって人生が決まってしまうから、千数百年前の隋の時代に始まった科挙のシステムの延長にあるのとそう変わらない。
それゆえ、何が起こるか?
多くの親と子供にとって高校を卒業するまでのゴールが「いい大学」に合格することにあるれば、小中学校という義務教育から高等学校までの教育課程も単に「いい大学」に合格する手段に化してしまう。高校生が苦手な科目の克服のため、予備校で補修を受けるというのは合理的な努力だろう。
実態に詳しくないので誤解があるのかもしれないが、しかし多くの予備校がある現実をみると、学校での授業では追いつけない、もしくはそれだけでは入試にパスできないという現実からか、少なからぬ高校生は予備校に行っているように思われる。
現実は、さらに中学生でもかなりの生徒が、学校が終わってから塾に行っているそうだ。そしてジョークではなくやはり多くの小学生が授業が終わってから熟に行っているそうだ。
孫たちの通っている幼稚園の教育方針は「仲良く楽しく元気よく」。娘は近所で中途入園を受け入れてくれるところとしてこの幼稚園を選んだわけではないそうで、入園してから教育方針を知ったそうだ。園長先生=住職が朝礼をふくめ壇上に立つ度に、園児に向かってこう話すことで知ったという。そんな幼稚園だが、退園時間後に有料でベネッサかどこかのお勉強のプログラムあると最近聴いた。幼稚園児対しにお勉強のプログラムのある幼稚園も普通にあるという。
そんな幼少期や10代を過ごしてきた人間が、どこの大学に行くことになるにしろ、まともな人間になれるのかどうか、疑問を感じざるをえない。
運よくその成果があって「いい大学」に行くことのできた卒業生は少なくとも毎年数万人はいるだろう。「いい大学」の卒業生と社会的に役に立つ卒業生との間に相関性は認められると思うが、一方「なんでこいつがXX大卒なの?」という人物はいくらでも散見される。単に18歳か19歳の時に、その大学の入試問題が解けただけなのだから、当然と言えば当然。
欧州では、以上の入試の弊害や人物の真贋を見極めるためか(よく知らないけど)、大学は誰でも入学できるが卒業するのがたいへん、と理解していた。日本と真逆。
ただしそれは単なる誤解だったようだ。先日の日経新聞に教育評論家の海老原継生氏が「欧州の学歴フィルター」という記事で、欧州の実態を書かれていた。興味深いので要約する。

欧州では小学校からずっと、選抜の仕組みが出来上がっているそうだ。欧州大陸国の多くは大学が無償に近いが、無償であるからにはそれに該当する人しか入学できない。
では大学進学者はどのように選ばれてくるのか。欧州諸国では成績選抜が激しい。ほとんどの国で義務教育の間に2~3割の落第生が出る。35人学級ならば、中学卒業までに10人ほどが「クラスからいなくなっている」のだ。
こうした落第生の多くは中卒で職業訓練校へと通う。だから欧州の中卒比率はいまだに2割前後にもなる。
高校進学でも「ふるい落とし」が激しい。下位3割程度は職業系の高校にしか入れない。日本のように工業高校から普通大学に誰でも進めるわけではない。
加えて、フランスだと普通高校に入っても、1年修了時にコースの再選抜がなされる。さらに高校3年時には、卒業資格を取るための修了試験が課される。これがかなり厄介だ。フランスのバカロレア(理系)だと、フランス語、数学、物理・科学、歴史・地理、外国語、哲学など多くの必修科目に加え、選択科目として、ラテン語や古代ギリシャ語などまで求められてきた歴史がある。
ドイツの場合は州により科目数が異なるが、最低でも6科目、一番多いバイエルンでは12科目にもなる。
ここまで同学年生のうち高校卒業生の比率を概算してみる。中卒段階で80%、一般高校入学段階で70%、1年修了時の再選抜と高校卒業資格試験については明記されていないが、内容から見てそれぞれ80%、70%とすると、大学へ進める比率は30%程度になるようだ。これが、冒頭の無償の大学に入学できる「それに該当する」人ということのようだ。実際に大学へ進学する人はさらに減るのだろう。
そもそも大学に入るのにこれだけ選抜されてきて、さらに大学でも選抜は続く。欧州大陸国の卒業(学位取得)割合は入学者の6~7割。ここでも多くの人が脱落する。
すなわち、多くても同学年の2割前後しか大卒の資格を持っていない。
欧州の仕組みはハードだが、それ故、学歴の価値が保たれ、学歴で差をつけることにも納得がいく。しかも中学や高校から日本の大学受験以上の「ふるい」にかけられている。日本はたった数科目の偏差値のみで将来が決まるから納得が得られにくい。
ノルウェーに4年暮らして知ったのだが、大学を出ていなくても人々はしあわせに暮らしている。ふるいにかけられ大学を出ていなくても、自分の能力に見合った仕事はあり、かつ給与の差が少ない。医者と看護婦の給与は同じという話も聞いたし、大卒の初任給と経営者の給与の比率が世界で飛びぬけて低く、3-5倍程度という新聞記事も印象的だった。確かに何もせずに椅子に座っているだけのいい会社の役職者より、週に二回ごみ収集をしてくれる人の方が社会的価値は高い。そういう人々が過不足ない給与を得て、仕事に誇りを持って社会に共生し、人生をそれぞれに楽しんで生きる世界は美しく見えた。
さて日本の大学進学率。下図は普通高校の進学率で、同学年でみれば54%ぐらい。すなわち同学年の半数以上が「大卒」。、それがいいことなのかどうかわからないが、日本の低成長や低生産性、その結果としての低賃金は、実はここに起因いるよう気もする。

日本社会の特徴の一つが、出身大学によって多かれ少なかれ人生の色合いが決まってしまうこと。いわゆる「いい大学」に入れば、自ら希望さえすれば大企業を含め安定したいい会社に入社できるチャンスは格段に大きく、かつ入社してしまえば何もしなくても生涯安定した収入と社会的地位が保証される。多少その流れに最近は変化が見られるにしろ、大卒の9割以上はそんな流れの中にいるのが現実。
そんな現実に浸ってきた親も、それを横目で見てきた親も、特別な才能に恵まれた子を持つ親以外は、子供を「いい大学」に合格してもらいたいと思うだろう。その関門が大学入試。
この大学入試、当日の試験一発で実質の人生が決まってしまう不幸を避けるため、多少の改革はなされていて、現在は国公立大学の場合、共通テストと個別学力検査(いわゆる入試)の併用、一般選別というらしい、が全体の8割ほどである。学校推薦型や総合型と呼ばれる入学者が2割ほどいるのが目新しい。
Benesse HPより

さて共通テストと個別学力検査の併用といっても学校によって比率の差がある。東大のように入試に8割の重みがある大学や、入試の重みが4割までの大学があるようだ。ただ、共通テストも高校三年生という人生の数日間のテストの結果であるから、本質的な改善はなされていないといって良い。

言い換えれば、テスト日の体調やテスト問題との相性という一瞬によって人生が決まってしまうから、千数百年前の隋の時代に始まった科挙のシステムの延長にあるのとそう変わらない。
それゆえ、何が起こるか?
多くの親と子供にとって高校を卒業するまでのゴールが「いい大学」に合格することにあるれば、小中学校という義務教育から高等学校までの教育課程も単に「いい大学」に合格する手段に化してしまう。高校生が苦手な科目の克服のため、予備校で補修を受けるというのは合理的な努力だろう。
実態に詳しくないので誤解があるのかもしれないが、しかし多くの予備校がある現実をみると、学校での授業では追いつけない、もしくはそれだけでは入試にパスできないという現実からか、少なからぬ高校生は予備校に行っているように思われる。
現実は、さらに中学生でもかなりの生徒が、学校が終わってから塾に行っているそうだ。そしてジョークではなくやはり多くの小学生が授業が終わってから熟に行っているそうだ。
孫たちの通っている幼稚園の教育方針は「仲良く楽しく元気よく」。娘は近所で中途入園を受け入れてくれるところとしてこの幼稚園を選んだわけではないそうで、入園してから教育方針を知ったそうだ。園長先生=住職が朝礼をふくめ壇上に立つ度に、園児に向かってこう話すことで知ったという。そんな幼稚園だが、退園時間後に有料でベネッサかどこかのお勉強のプログラムあると最近聴いた。幼稚園児対しにお勉強のプログラムのある幼稚園も普通にあるという。
そんな幼少期や10代を過ごしてきた人間が、どこの大学に行くことになるにしろ、まともな人間になれるのかどうか、疑問を感じざるをえない。
運よくその成果があって「いい大学」に行くことのできた卒業生は少なくとも毎年数万人はいるだろう。「いい大学」の卒業生と社会的に役に立つ卒業生との間に相関性は認められると思うが、一方「なんでこいつがXX大卒なの?」という人物はいくらでも散見される。単に18歳か19歳の時に、その大学の入試問題が解けただけなのだから、当然と言えば当然。
欧州では、以上の入試の弊害や人物の真贋を見極めるためか(よく知らないけど)、大学は誰でも入学できるが卒業するのがたいへん、と理解していた。日本と真逆。
ただしそれは単なる誤解だったようだ。先日の日経新聞に教育評論家の海老原継生氏が「欧州の学歴フィルター」という記事で、欧州の実態を書かれていた。興味深いので要約する。

欧州では小学校からずっと、選抜の仕組みが出来上がっているそうだ。欧州大陸国の多くは大学が無償に近いが、無償であるからにはそれに該当する人しか入学できない。
では大学進学者はどのように選ばれてくるのか。欧州諸国では成績選抜が激しい。ほとんどの国で義務教育の間に2~3割の落第生が出る。35人学級ならば、中学卒業までに10人ほどが「クラスからいなくなっている」のだ。
こうした落第生の多くは中卒で職業訓練校へと通う。だから欧州の中卒比率はいまだに2割前後にもなる。
高校進学でも「ふるい落とし」が激しい。下位3割程度は職業系の高校にしか入れない。日本のように工業高校から普通大学に誰でも進めるわけではない。
加えて、フランスだと普通高校に入っても、1年修了時にコースの再選抜がなされる。さらに高校3年時には、卒業資格を取るための修了試験が課される。これがかなり厄介だ。フランスのバカロレア(理系)だと、フランス語、数学、物理・科学、歴史・地理、外国語、哲学など多くの必修科目に加え、選択科目として、ラテン語や古代ギリシャ語などまで求められてきた歴史がある。
ドイツの場合は州により科目数が異なるが、最低でも6科目、一番多いバイエルンでは12科目にもなる。
ここまで同学年生のうち高校卒業生の比率を概算してみる。中卒段階で80%、一般高校入学段階で70%、1年修了時の再選抜と高校卒業資格試験については明記されていないが、内容から見てそれぞれ80%、70%とすると、大学へ進める比率は30%程度になるようだ。これが、冒頭の無償の大学に入学できる「それに該当する」人ということのようだ。実際に大学へ進学する人はさらに減るのだろう。
そもそも大学に入るのにこれだけ選抜されてきて、さらに大学でも選抜は続く。欧州大陸国の卒業(学位取得)割合は入学者の6~7割。ここでも多くの人が脱落する。
すなわち、多くても同学年の2割前後しか大卒の資格を持っていない。
欧州の仕組みはハードだが、それ故、学歴の価値が保たれ、学歴で差をつけることにも納得がいく。しかも中学や高校から日本の大学受験以上の「ふるい」にかけられている。日本はたった数科目の偏差値のみで将来が決まるから納得が得られにくい。
ノルウェーに4年暮らして知ったのだが、大学を出ていなくても人々はしあわせに暮らしている。ふるいにかけられ大学を出ていなくても、自分の能力に見合った仕事はあり、かつ給与の差が少ない。医者と看護婦の給与は同じという話も聞いたし、大卒の初任給と経営者の給与の比率が世界で飛びぬけて低く、3-5倍程度という新聞記事も印象的だった。確かに何もせずに椅子に座っているだけのいい会社の役職者より、週に二回ごみ収集をしてくれる人の方が社会的価値は高い。そういう人々が過不足ない給与を得て、仕事に誇りを持って社会に共生し、人生をそれぞれに楽しんで生きる世界は美しく見えた。
さて日本の大学進学率。下図は普通高校の進学率で、同学年でみれば54%ぐらい。すなわち同学年の半数以上が「大卒」。、それがいいことなのかどうかわからないが、日本の低成長や低生産性、その結果としての低賃金は、実はここに起因いるよう気もする。

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