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2023.05/06 [Sat]
いちょう並木と都立青山高校
昨日のこどもの日、天気も良くて暖かというか暑いくらい、家にいるのもなんだかね、というので神宮外苑のイチョウ並木を見に行くことになった。確か昨年に再開発のため全て伐採されるという計画が明らかになり、まだあるうちに行っておこうとなったもの。大江戸線一本で行けるのも、急に決まっただけに好ましい。
青山一丁目駅から歩いてすぐ。未だ往年のままの姿で立ち並んでいた。

両脇は緑のトンネルの歩道になっていて、しゃれたカフェのようなものもある。

今日は途中から車輛進入禁止。写真撮影のためまるで通行人も立入禁止にしたような一瞬。

絵画館前広場では「サイクルドリームフェスタ」なる警察も交えての自転車系のフェスタが開催中。5月5日は自転車の日だそうだ。

国立競技場の南側に回る。この三差路は昔「日本青年館」の赤レンガの建物があった所。国立競技場の建て替えと共に、邪魔だ、ということで取り壊されたらしく、道路標識にだけ「日本青年館」とあった。

この辺りは実は三年間高校に通った通学路。千駄ヶ谷駅から国立競技場に沿って歩き高校までは20分近くかかった。母校のことなど全く忘れていたが、この機に五十数年ぶりに訪ねてみることにした。下の写真の道をまっすぐ進めば銀座線の外苑前駅、その手前に高校の正門がある。道の様相は激変していて歩いてもどこにいるのか全く分からないくらい。

もしかしたらもう移転してないかもしれないと思いつつしばらく歩くと國學院高等学校の入り口が昔通りの位置にあった。その隣がわが母校、都立青山高校である(白い壁の部分)。

昔はなかった高校の通用門を過ぎると金網のフェンスになって、毎年の青山高校のポスターが並んでいた。AD ALTA、イタリア語で「高い」という意味らしい。東京都の高校入試で学校群制度が開始されたのが1967年、私は2年目の1968年入学。その後1994年に単独選抜制度が開始され、2003年に学区が廃止されたそうだ。さらに2007年には東京都教育委員会より「進学指導重点校」に指定されたと、看板に書いてあった。要は、今は単独校として生徒を募集しているらしい。「高きを望め、青山で」。

1999年に現校舎が竣工されたそうで、昔年の面影は全くない。高校2年生の秋、学生運動華やかな頃で、ノンポリの高校生にはよく分からないが、学校に機動隊がはいり火炎瓶が飛び交った。おかげで高校はロックアウト、全国でロックアウトされた高校は青山高校だけだったと記憶する。遠い昔の記憶。


学校の道路を挟んで向かい側は神宮球場。ヤクルト戦の最中らしく場内の歓声だけが聞こえてくる。

敷地の中に入る。このアーチ状の回廊、これは昔と全く変わらない。大学ではできて間もない「野外生活研究会」という軟弱なサークルに入った。キャンプ主体だったがすぐに山に目覚めたのはこの時以来。全員シュラフを持っていたので、1年生の時から早慶戦一番乗りを目指してこのアーチの下で前日から泊まり込んだ。当時としては珍しかったので新聞に写真入りで取り上げられ、このシュラフはオレ、などと喜んだこともあった。この泊まり込みもだんだんエスカレートして二泊、そして三泊となるにつれ球場から禁止されて大学院の頃には沙汰やみとなった。アーチを見てそんな思い出が50年ぶりに溢れだした。

イチョウ並木(黄色)と青山高校(赤)と神宮球場の位置関係。球場にあった地図から拝借。

来た道を戻って国立競技場へ。


千駄ヶ谷へ行く途中に鳩森神社に寄った。

ここには富士山を模した富士塚がある。

これが登山口。写真の右下には迷わないように「登山口」の標識が立てられている。標識は以下一合目ごとにある。

九合目まで来れば山頂の奥宮までは2メートル。

帰りは大江戸線の国立競技場駅から。駅前から見た国立競技場。今日の交通費はゼロ、途中飲み物も買わなかった完全な無銭旅行だった。

青山一丁目駅から歩いてすぐ。未だ往年のままの姿で立ち並んでいた。

両脇は緑のトンネルの歩道になっていて、しゃれたカフェのようなものもある。


今日は途中から車輛進入禁止。写真撮影のためまるで通行人も立入禁止にしたような一瞬。

絵画館前広場では「サイクルドリームフェスタ」なる警察も交えての自転車系のフェスタが開催中。5月5日は自転車の日だそうだ。


国立競技場の南側に回る。この三差路は昔「日本青年館」の赤レンガの建物があった所。国立競技場の建て替えと共に、邪魔だ、ということで取り壊されたらしく、道路標識にだけ「日本青年館」とあった。

この辺りは実は三年間高校に通った通学路。千駄ヶ谷駅から国立競技場に沿って歩き高校までは20分近くかかった。母校のことなど全く忘れていたが、この機に五十数年ぶりに訪ねてみることにした。下の写真の道をまっすぐ進めば銀座線の外苑前駅、その手前に高校の正門がある。道の様相は激変していて歩いてもどこにいるのか全く分からないくらい。

もしかしたらもう移転してないかもしれないと思いつつしばらく歩くと國學院高等学校の入り口が昔通りの位置にあった。その隣がわが母校、都立青山高校である(白い壁の部分)。

昔はなかった高校の通用門を過ぎると金網のフェンスになって、毎年の青山高校のポスターが並んでいた。AD ALTA、イタリア語で「高い」という意味らしい。東京都の高校入試で学校群制度が開始されたのが1967年、私は2年目の1968年入学。その後1994年に単独選抜制度が開始され、2003年に学区が廃止されたそうだ。さらに2007年には東京都教育委員会より「進学指導重点校」に指定されたと、看板に書いてあった。要は、今は単独校として生徒を募集しているらしい。「高きを望め、青山で」。

1999年に現校舎が竣工されたそうで、昔年の面影は全くない。高校2年生の秋、学生運動華やかな頃で、ノンポリの高校生にはよく分からないが、学校に機動隊がはいり火炎瓶が飛び交った。おかげで高校はロックアウト、全国でロックアウトされた高校は青山高校だけだったと記憶する。遠い昔の記憶。


学校の道路を挟んで向かい側は神宮球場。ヤクルト戦の最中らしく場内の歓声だけが聞こえてくる。

敷地の中に入る。このアーチ状の回廊、これは昔と全く変わらない。大学ではできて間もない「野外生活研究会」という軟弱なサークルに入った。キャンプ主体だったがすぐに山に目覚めたのはこの時以来。全員シュラフを持っていたので、1年生の時から早慶戦一番乗りを目指してこのアーチの下で前日から泊まり込んだ。当時としては珍しかったので新聞に写真入りで取り上げられ、このシュラフはオレ、などと喜んだこともあった。この泊まり込みもだんだんエスカレートして二泊、そして三泊となるにつれ球場から禁止されて大学院の頃には沙汰やみとなった。アーチを見てそんな思い出が50年ぶりに溢れだした。

イチョウ並木(黄色)と青山高校(赤)と神宮球場の位置関係。球場にあった地図から拝借。

来た道を戻って国立競技場へ。


千駄ヶ谷へ行く途中に鳩森神社に寄った。

ここには富士山を模した富士塚がある。

これが登山口。写真の右下には迷わないように「登山口」の標識が立てられている。標識は以下一合目ごとにある。

九合目まで来れば山頂の奥宮までは2メートル。

帰りは大江戸線の国立競技場駅から。駅前から見た国立競技場。今日の交通費はゼロ、途中飲み物も買わなかった完全な無銭旅行だった。

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