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風の行方とハードボイルドワンダーランド

再雇用の機会を捨て自由な時と空間を・・・ 人は何のために生まれてきたのだろうか? これから本当の旅がはじまる・・・

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終戦記念日に寄せて:記憶の保存

終戦記念日に寄せての追記。NHKのHPに「薄れゆく記憶」として戦争の遺構や記憶の継承を後世に保存するためのページがあった。
20230815終戦記念日戦跡

その象徴が原爆ドーム、戦後、貧困と混乱の中で運よく保存された。当然ながら取り壊すべきという人が多数いる中で、一部志のある人たちがいたおかげで現在に至っていた。ウィキペディアにその経緯が記されていたのでメモしておく(筆者の抄訳)。
原爆ドーム

戦後の復興が進むなか、当初は産業奨励館廃墟(現原爆ドーム)も取り壊すべきだという意見も多かったらしい。新聞は「自分のアバタ面を世界に誇示して同情を引こうとする貧乏根性を広島市民はもはや精算しなければいけない」(夕刊ひろしま、1948年10月)などと書き立てたという。しかし解体に着手されることはなく、1949年8月6日に広島平和記念都市建設法が制定され、平和記念公園構想が本格化、1955年に完成した。

その後1960年代には風化が進んで崩落の危険が生じたことから、一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になった。広島市当局も当初経済的理由や財源配布の優先順位から原爆ドーム保存には消極的で一時は取り壊される可能性が高まっていた。一方平和運動家の河本一郎や「広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会が永久保存することを決議する。

ただし、「平和への祈願」や「核廃絶」の象徴として原爆ドームが残されて良かったね、という意味ではなく、物理的存在として古代遺跡のように残されたことに対する価値を評価しての話。テレビや新聞でそこに個人的体験談や思いを重ねての報道はうっとうしく、そういう話は文学の世界でやってほしいと思う。

さて原爆ドームと対照的な経緯を辿ったのが東日本大震災の遺構。原爆ドームは「平和への祈願」や「核廃絶」の象徴であることに異存はないが、戦争や核廃絶は国民がいくら願っても、国の指導者が決めるものなので国民一人一人にとってはどうにもならない。一方、東日本大震災の遺構は津波の被害の凄まじさを見せつけてくれるので、国民一人一人が対処することができる。実際津波で亡くなられた方々の大部分は高台に逃げていれば助かった可能性は大きい。

東北の津波は今回が初めてではないのだが、昔の出来事は多くの人にとっては忘れられた。同様の被害を繰り返さないためには100年という時間レベルで朽ちることのない震災遺構を目に見える形で残すことが災害に直面した同時代人の責務であるはずである。その原爆ドームに匹敵する遺構が消滅した。そこにあるのは、原爆ドームと同じく、多数の市民の見たくないというセンチメントと残さねばという市長らの意向、そして財源だった。

2017年6月に「「第十八共徳丸」と「はまゆり」」というタイトルで記事を書いたのでそこに詳しい。 く→こちら

そのブログ記事で掲載した画像を貼っておく。
「第十八共徳丸」。全長60メートル、総トン数は330トン。東日本大震災の津波によって、港から750メートルも離れた市街地まで運ばれた。
第十八共徳丸1 第十八共徳丸2

「はまゆり」。はまゆりは、隣の釜石市が所有していた全長約28メートル、排水量109トンの観光船。岩手県大槌町で検査中に津波に巻き込まれ、海岸線から約150メートル内陸まで流された。水が引いた後、巨大な船体が高さ約10メートルの屋根の上に取り残された光景は津波の猛威を示す象徴となった。
はまゆり1 はまゆり2








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