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2023.11/07 [Tue]
「私の履歴書」自己版
今月に入り日銀前総裁の黒田東彦氏が「私の履歴書」の連載を始めた。黒田氏は私より8歳年上の1944年生まれ、生まれ育ちはそこそこだが、戦後の混乱の中において飛びぬけて聡明な子供であったようで、世田谷区立小学校から7-8倍の入試をパスし東京教育大学付属駒場中学校・高等学校に進学した。その後に東大文一二入月、1967年に大蔵省へ入省している。
6日(月)の記事は大蔵省へ入省してからの話だった。当時は学生運動の最盛期でもあった。氏の記述。
秘書課時代のもう一つの難問が大学紛争だった。東大では68年1月に医学部の研修医を巡って始まったストが、6月にほぼ全学部に広がった。大蔵省が採用予定の上級職二十数名の大半が東大生で、影響が心配になった。個人的に様子を見に行ったが、マスク姿の学生がジグザグデモをしており、混乱は明白だった。私は内定者に集まってもらい、入省の意思を確かめた。数名が内定を断った。「東大と同じアンシャンレジーム(旧体制)の大蔵省は辞退したい」と言われたのだ。
11月6日(月)第6回
この時代、一回り近く下の年齢の私は高校生、しかも都立青山高校の。思わず同時代の空気が蘇る。以前にこの時の模様を記していることを思い出した。検索すると6年前の2017年8月に「回想の1970年代」と題してこう記している。
1969年の高校2年生の9月、機動隊が構内に入り火炎瓶が飛び交った。秋の学園祭の準備で夏休みにも結構登校していたにもかかわらず不穏な動きはあったような気はするが、全くのノンポリだったため何故そんなことが生じたのか、詳しいどころか概要すら覚えていない。高校はロックアウトされ、2年生の秋は11月までの2か月間学校に行っていない。当時は学園紛争の最盛期ではあったが、高校で火炎瓶が飛んだのはわが校だけだったと記憶している。
今回、当時に関する記事をネット上で漁るといくつか該当する記載を見つけた。
・9月12日 青山高校全闘委、学校規約撤廃等五項目を要求して校長室占拠<14日機動隊導入で封鎖解除、ロックアウト、20日全共闘結成、29日十一月闘争にむけ本館八教室バリ封鎖>
・学校側が問題の本質が何であるかもはっきりさせないまま、なしくずし的に授業を再開させようとした9月29日、全共闘は3年全クラスバリケード封鎖に突入し、授業再開策動を阻止した。
青山高校バリケード封鎖の模様
・10月21日早朝、われわれが予想した通り、機動隊が導入された。バリケード内に残った学友が投石・火炎ビンで抵抗したが400人近い機動隊と10数台の装甲車、放水車そして催涙弾によってバリケードは解除され、中に残った4人は全員逮捕された。さらに学校の外でこれに抗議してデモをした学友のうち5人が公務執行妨害で逮捕された。学校はただちにロックアウトされた。
9月中旬から学校はロックアウトされていたので当然ながら授業は無し、学校からどのような形でどのような連絡があったのか全く記憶がないが、学校に代えて新宿中央公園の図書館に通った。今は「エコギャラリー新宿」と名称を変えているが建物は当時のままである。記憶にある風景は秋の穏やかな光に満ちた静かな時間、平日に図書館で過ごす高校生など当然ながら誰もいなかった。
「回想の1970年代」からその後の記述のコピペ、期せずして自分の「私の履歴書」になってしまったが、すっかりいい年になってしまったのでちょうど良いような気がする。
高校三年生になったものの、塾に通うことはなく、夏休と冬休みに単発の夏期講習を受けたぐらいで自宅で受験勉強。模試を受けると合格判定というのがあって、いつもCとかD判定、E、すなわち「志望校変更の余地あり」などという結果もあった。はっきりした志望校はなく、その度に適当に記入していた。最終的に受験した大学は、千葉大園芸学部造園科と早稲田大学資源工学科。将来に対する熱い志望とか将来像などの持ち合わせはなく、どこか珍しい所を受けようというのが志望動機。早稲田の試験が先だった。化学は完璧、英語と物理はそこそこ、しかし数学は6問出題されて1-2問は手つかず、他の4問も何かは書いたものの、全体では部分点として3割ぐらいしかできなかった。当然落ちたと思い、発表当日は見に行く気がしなかった。それまでの人生で30点などとったことはなかった。それでも、やはり気になって夕方、自転車で結果の張り出されたがらんととした理工学部へ見に出かけた。驚いたことに合格していた。入学後に聞いた話だと数学は白紙答案が多数あったそうで、3割はマシな方だったらしい。千葉大も合格したが、家から近い早稲田に行くことにした。このころから多少人生をナメるようになったのかもしれない。おかげでマイナスよりプラス効果の大きい人生になったようだ。
入学してすぐ「野外生活研究会」という本部のサークルに入った。設立した4年生が当時の早稲田を仕切っていた革マルだかのコネで、演劇博物館の隣の校舎の地下に部室を持っていた。サークルの主旨は野山に行って野草を喰うというようなものだったが、実態は部室にウロウロしているか麻雀をするというものだった。ただそんな部活に飽き足らず同年代の仲間と山に行くようなり、その後は山登りが主体のサークルになった。山登りが半生の趣味になったきっかけはここにある。
理工学部では革マルと民青が覇権を争っていた(ような気がする)。何月か覚えていないが、学費値上げ反対闘争というものを理工学部でやっていた。当時国立大学の学費は年12000円、早稲田大学理工学部は120,000円だった。活動家が授業中の教室に入り、クラス単位で学費値上げの是非について議論をして結論を報告しろという。詳細は覚えていないが、学費に上げやむなし、と主張してクラスの結論もそれに従った。学部総会のようなようなもので値上げ支持を表明したのは我クラスだけだった。幸い革マルには無視されたようで身の危険を覚えることはなかった。
6日(月)の記事は大蔵省へ入省してからの話だった。当時は学生運動の最盛期でもあった。氏の記述。
秘書課時代のもう一つの難問が大学紛争だった。東大では68年1月に医学部の研修医を巡って始まったストが、6月にほぼ全学部に広がった。大蔵省が採用予定の上級職二十数名の大半が東大生で、影響が心配になった。個人的に様子を見に行ったが、マスク姿の学生がジグザグデモをしており、混乱は明白だった。私は内定者に集まってもらい、入省の意思を確かめた。数名が内定を断った。「東大と同じアンシャンレジーム(旧体制)の大蔵省は辞退したい」と言われたのだ。
11月6日(月)第6回

この時代、一回り近く下の年齢の私は高校生、しかも都立青山高校の。思わず同時代の空気が蘇る。以前にこの時の模様を記していることを思い出した。検索すると6年前の2017年8月に「回想の1970年代」と題してこう記している。
1969年の高校2年生の9月、機動隊が構内に入り火炎瓶が飛び交った。秋の学園祭の準備で夏休みにも結構登校していたにもかかわらず不穏な動きはあったような気はするが、全くのノンポリだったため何故そんなことが生じたのか、詳しいどころか概要すら覚えていない。高校はロックアウトされ、2年生の秋は11月までの2か月間学校に行っていない。当時は学園紛争の最盛期ではあったが、高校で火炎瓶が飛んだのはわが校だけだったと記憶している。
今回、当時に関する記事をネット上で漁るといくつか該当する記載を見つけた。
・9月12日 青山高校全闘委、学校規約撤廃等五項目を要求して校長室占拠<14日機動隊導入で封鎖解除、ロックアウト、20日全共闘結成、29日十一月闘争にむけ本館八教室バリ封鎖>
・学校側が問題の本質が何であるかもはっきりさせないまま、なしくずし的に授業を再開させようとした9月29日、全共闘は3年全クラスバリケード封鎖に突入し、授業再開策動を阻止した。
青山高校バリケード封鎖の模様

・10月21日早朝、われわれが予想した通り、機動隊が導入された。バリケード内に残った学友が投石・火炎ビンで抵抗したが400人近い機動隊と10数台の装甲車、放水車そして催涙弾によってバリケードは解除され、中に残った4人は全員逮捕された。さらに学校の外でこれに抗議してデモをした学友のうち5人が公務執行妨害で逮捕された。学校はただちにロックアウトされた。
9月中旬から学校はロックアウトされていたので当然ながら授業は無し、学校からどのような形でどのような連絡があったのか全く記憶がないが、学校に代えて新宿中央公園の図書館に通った。今は「エコギャラリー新宿」と名称を変えているが建物は当時のままである。記憶にある風景は秋の穏やかな光に満ちた静かな時間、平日に図書館で過ごす高校生など当然ながら誰もいなかった。
「回想の1970年代」からその後の記述のコピペ、期せずして自分の「私の履歴書」になってしまったが、すっかりいい年になってしまったのでちょうど良いような気がする。
高校三年生になったものの、塾に通うことはなく、夏休と冬休みに単発の夏期講習を受けたぐらいで自宅で受験勉強。模試を受けると合格判定というのがあって、いつもCとかD判定、E、すなわち「志望校変更の余地あり」などという結果もあった。はっきりした志望校はなく、その度に適当に記入していた。最終的に受験した大学は、千葉大園芸学部造園科と早稲田大学資源工学科。将来に対する熱い志望とか将来像などの持ち合わせはなく、どこか珍しい所を受けようというのが志望動機。早稲田の試験が先だった。化学は完璧、英語と物理はそこそこ、しかし数学は6問出題されて1-2問は手つかず、他の4問も何かは書いたものの、全体では部分点として3割ぐらいしかできなかった。当然落ちたと思い、発表当日は見に行く気がしなかった。それまでの人生で30点などとったことはなかった。それでも、やはり気になって夕方、自転車で結果の張り出されたがらんととした理工学部へ見に出かけた。驚いたことに合格していた。入学後に聞いた話だと数学は白紙答案が多数あったそうで、3割はマシな方だったらしい。千葉大も合格したが、家から近い早稲田に行くことにした。このころから多少人生をナメるようになったのかもしれない。おかげでマイナスよりプラス効果の大きい人生になったようだ。
入学してすぐ「野外生活研究会」という本部のサークルに入った。設立した4年生が当時の早稲田を仕切っていた革マルだかのコネで、演劇博物館の隣の校舎の地下に部室を持っていた。サークルの主旨は野山に行って野草を喰うというようなものだったが、実態は部室にウロウロしているか麻雀をするというものだった。ただそんな部活に飽き足らず同年代の仲間と山に行くようなり、その後は山登りが主体のサークルになった。山登りが半生の趣味になったきっかけはここにある。
理工学部では革マルと民青が覇権を争っていた(ような気がする)。何月か覚えていないが、学費値上げ反対闘争というものを理工学部でやっていた。当時国立大学の学費は年12000円、早稲田大学理工学部は120,000円だった。活動家が授業中の教室に入り、クラス単位で学費値上げの是非について議論をして結論を報告しろという。詳細は覚えていないが、学費に上げやむなし、と主張してクラスの結論もそれに従った。学部総会のようなようなもので値上げ支持を表明したのは我クラスだけだった。幸い革マルには無視されたようで身の危険を覚えることはなかった。
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