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風の行方とハードボイルドワンダーランド

再雇用の機会を捨て自由な時と空間を・・・ 人は何のために生まれてきたのだろうか? これから本当の旅がはじまる・・・

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私の履歴書(4):バンコク駐在(完成版)

1983年にバンコク駐在の命を受けた。家族帯同での赴任であった。

当社の主要資産はシャム湾持つ権益(正式にはGulf of Thailandでタイ湾なのかもしれないが台湾と紛らわしいのかわが社ではタイ沖事業と呼んでいた)であった。シャム湾では1970年代から試掘作業が開始され、次々とガス田が発見されていた。1981年にタイで最初の海洋ガス田の生産がはじまり、当社保有の鉱区においても1983年秋に生産を開始する計画であった。生産を開始するにあたりバンコク事務所を開設する運びとなり、その初代の技術系副所長としての赴任であった。陣容は所長と事務系の副所長の3名という最小規模。赴任時は30歳であった。

タイの海洋ガス田と言われても普通の人にはイメージがつかめないと思うが、タイはアジアでは有数のガス生産国であった。後年のガス田のマップ。赤がガス田で緑が油田、いずれも比較的小規模なものであるが多数のガス田が存在する。その当初の開発者がわが社であった。
20231114タイのガス田マップ

こちらは海上ガス田の施設。どこの施設か分からないがすべて同じようなものである。中央の施設がCPPと呼ばれる中央生産施設、右の白い建物がLQと呼ばれる居住区、左の小さな施設がWHPと呼ばれる海底ガス田からガスを生産する井戸を集めプラットフォーム。なおPはプラットフォームの略。WHPは当時で数十基、現在は数百基あると思われる。

移動はすべてヘリコプター、業界では世界中で「チョッパー」と呼んでいる、で、LQの屋上のヘリポートに離着陸する。地図の西側の陸地に基地があり、所要時間はよく覚えていないが1‐2時間だったように思う。ノルウェーやメキシコ湾、オーストラリアなどでも海上油田を訪れるときは必ずチョッパーで移動なのでこれまで何十回と搭乗したが、飛行機より飛行高度が格段に低く景色はいいはずだが海面しか見えず、かつ騒音がすごいので乗って楽しいものではない。
20231114ガス田

続きを書こうとしたら2018年12月にバンコク時代に触れた記事を偶然見つけた→こちら。この時に貼り付けた絵があったので合わせて貼っておく。出典はわが社のHP。今は載っていなかった。駐在中は何回も訪れている。
201812MOECO.png

さて、駐在時代の話に戻る。事務所の開設は1983年の10月だったが一足先の7月に単身赴任した。内容は覚えていないがいろいろとやることがあったのだろうが、最大のミッションは家族の住む場所を確保することであった。当時のタイは発展途上国、バンコクも戦後の東京に似たような混沌とした都会、公共交通機関はバスとトゥクトゥクだけという状況だった。

安全と快適さを求めてほとんどの日本人は新築され始めていた高層アパートに住居していたが、マンション暮らしが好きでなくかつ一歳半の子供がいることから、多数の熱帯の樹木の茂った庭とプール、さらにテニスコートを備えた二階建ての建物のアパートを選択した。20世帯ぐらいだから高層アパートに較べれば小さい。欠点はかなり古いたてものであったこと。寝室にだけやはり年代物の古いクーラーが付いていた。一方長所は庭とプール、もうひとつが門の前が病院だったこと。迷わずここに決めた。場所はスクンビット通りソイ39である。この時代、少なくとも海外からの居住者はアヤさんと呼ばれる女中を雇う。ここはアヤさんの居住区はなく皆通いだった。紹介してくれた不動産屋がアヤさんも付けてくれた。スチンダといいタイの貧しい東北出身の女性だが、日本人に仕えたことあるとかで日本語で十分に会話ができた。妻と同年齢で聡明な女性でこともあり妻と気があって仲良くしていたが、けっして美人ではなかった。既婚で子供もいた。

住居も決定、アヤさんがいるから身のまわりや食事の世話をしてもらえるので生活には何一つ不便なことはなかった。会社へは通える交通機関がないためもあるが、運転手付きの車が各自に与えられた。

現在のバンコクの地図とアパートのあった場所(赤丸)。十数年前にバンコクを訪れた。当時のアパートに行ってみることと、お世話になったアヤさんのスチンダに再会し、訳あって改めてお礼をするつもりだったが彼女の行方はつかめなかった。スクンビット通りソイ39に行くと周辺はどこだかわからないほど変化していたが、アパートは当時のままだった。しかし無人の廃屋状態。今回写真画像で確認するとアパートは消えて高層マンションが建っていた。プロムミット病院も消えていた。
20231116バンコク地図

十月に妻と娘が来た。妻はこの時26歳、ずいぶんと若い駐在員夫人であった。
20231116-1a.png

バンコク駐在は1986年までの3年間であった。若くして3年間もタイに住めばいろいろなことがある。仕事関係も含め書くべきことが多すぎて一冊の本が書けそうなくらい、現在それほど暇を持て余しているわけではないので全て割愛、いつか時間ができた時に埋めることにする。

一つだけ記すべき出来事が次女の誕生。アパートの前のプロムミット病院で子供がしばしば世話になり、かつ妻は臨床検査技師であったため病院の技術レベルや施設、対応に何も問題がないことを確認していたことからバンコクで子供を産むことになった。

帰国が決まってから、まだ訪れていなかったチェンマイへ家族旅行。
20231116-2.png

帰国前に、タイ沖ガス田のオペレーターであるユノカルが、タイの関係者も呼んで私の送別ゴルフ大会を開催してくれた。普段の実力を知っている担当者に優勝するようにとハンデ36を与えてもらっての大コンペであった。そこで椿事の発生、いつも100前後でプレーしていたにも関わらず86でホールアウト、ベスグロまで獲得してしまった。自分でも驚きだったので今も覚えている。その時の優勝賞品の錫のプレートの時計は、今も山荘に飾ってある。

帰国直前のアパートの庭での長女(4歳ちょっと)と次女(1歳ちょっと)の、チェンマイで買った民族衣装を着ての記念撮影。なぜかとてもよく似合う。
20231116-3.png


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